「黒 糖」 歴史散歩(1)

直 川智(すなおかわち)

奄美の産業を支えているサトウキビは、今(2004年)から約380年前、直川智が中国から持ち帰ったものが栄えたと言われている。川智は大和村大和浜の農家に生まれた。平民だったため姓を名乗れず、後に子供が「直」姓を名乗ったと伝えられている。生年月日などは定かでない。以下、碑文をどうぞ。

直川智 生誕の地(大和村大和浜)              磯平パーク(大和村戸円



世界のキビ展示場(磯平パーク)

開鐃神社(直川智が祭られている)
三和良(みわら)その墓
この三和良の墓は,大和村役場の裏の滝之川山にある。
この山は、神山としてあがめられ、また、椎や樫などの原性林に覆われている地域である。
 墓は以前からあることは知られていたが、森林に覆われて忘れられていた。2002年、役場裏に駐車場を作ろうとして工事に取り掛かったところ、この墓があらわれてきた。

三和良が注目されるわけ
* 薩摩藩の財政収入で、黒糖が大きな収入となった。その技術をもたらした人物の一人である。
* 1688(元禄1)年か翌年、今の宇検村の横目、嘉和知(川智)が薩摩藩の命により製糖技術習得のため琉球へ派遣された時、一緒に琉球へ行き、黍作植付けと砂糖製法の技術を習って帰ってきた。その結果、黍作が増え当時莫大な利潤となったとある。(和家文書)
このことが基礎になり、後の桜島、垂水、種子島、屋久島、琉球などの砂糖生産で、奄美の人々は技術指導をし、また、鹿児島の税制に大きな貢献をした。

田畑 佐文仁(たばたさぶんじ)
龍郷町役場前国道58号線に沿って「たぶくろの碑」が建てられ、その付近一帯公園になっています。その碑文に、
「奄美に偉人がいた。およそ300年前、龍郷町出身の田畑佐文仁為辰翁は、海を埋め山を開いて、500ヘクタールも田畑を作り、狭い耕地にしがみつき苦しい生活を送っていた島の人々を救った。1676年(延宝4年)に生まれ、36歳のとき、薩摩の国分地方で学んだ新田開発工事の技術を生かし、この一体の海をせき止め、田んぼを造成したほか、大島本島各地で開墾のくわを入れたのである。1764年(明和元年)88歳の生涯を閉じたが、製糖用水車を発明するなど、産業振興の功績は大きい。奄美では、広い田地のことを”たぶくろ”とよぶため、この「たぶくろの碑」は、田畑翁の輝かしい開拓精神を永遠に伝え、島の人々の夢ふくらせることを願って多くの人々がこれを建てた。昭和44年11月15日」とあります。

木だけで出来たサタグルマ (圧搾機)
ミズサタグルマ(製糖用水車)
圧搾機
奄美に砂糖造りが始まった頃から、使用された木製圧搾機である。その頃は鉄製のものがなかったので、木製を使用し、使用しない時は川の中や田の中に入れて保管した。木製の歯車は、大気中に放置すると、ヒビ割れが出来てしまうからである。
 現在保管中のものも最初はきれいな形をしていたが、時間がたつにつれて割れ目が出来てボロボロにくだけ、元の形はほとんど残っていない。
 平素は、湿地帯に埋めておき、製糖期になると取り出して、製糖小屋に運び、クルバを設けて組み立てるのであった。文化8年に柏有斗が改良したと言われる鉄輪車も甘蔗をかむ胴体だけが鉄の輪であり、噛み合う歯は、木で作られていた。改良に改良を重ねて現在の鉄輪車になった。
柏 有斗(かしわゆうと)   名瀬市知名瀬の人で今より約190年前に産業の開発に活動した篤志家である。有斗翁の先祖は琉球王に連なる一族だと言われ大永2年(1522年)喜志統親雲上(ぺーちん)が大親職として笠利町に赴任したのが始まりである。
 一家は諸役を重ね、父当麻は元与人。赤尾木に生まれた有斗は幼少の頃、離婚した母と知名瀬に移り住んだ。
 有斗長じて黍横目となり、刻苦精励糖業の指導監督に当たっているうち、文化5年(1808年)に至り鉄輪車を発明した。これより先、彼は木口車をも制して、何れもよく利用された。殊に鉄輪車は木口車の倍以上の搾汁力があったので、忽ち島中到る所に広まり、人々皆その恩恵に浴した。既に享保年中に田畑佐文仁によlって製糖水車が考案され、糖業上一大進歩を遂げたが、然し水車は水力を必要とするところから地域的に限られ、広く通用するにいたらなかったので、やはり木口車や鉄輪車が一般には利用されたのである。
 有斗の甘蔗圧搾機の発明には頗る苦心の跡がある。最初木製の車(転子)七つより成る七つ車なるものを工夫し、これを回転せしむるためには横棒の一端に牝馬を繋ぎ、他端に牡馬を繋ぎ、牝馬を前に進ましめ、牡馬を後より追はしめ、牝牡の関係を巧みに利用して能率の増進を図ったものであった。然しこの七つ車は余り成績が思わしくなかったので、五つ車に改良したのであるが、これも充分の効果を収めることが出来なかった。そこで彼は木口車を考案して漸く用を弁ずるに至ったのである。だが、木口車は永く使用するに従って磨滅しやすく、随って圧搾力を減じ、蔗汁が黍稈に残留するを免れないので、ここに一大改良を加えんとして考案したのが鉄輪車である。
 鉄輪車の考案についても非常な苦心の跡が見える。彼は先ず竹を以ってその模型を造り、これを携えて鹿児島に出て、鍛冶屋に造らせて帰島の上実地に試みたが、思わしくないので、更に工夫してその欠点を補い、再び竹製の模型を携えて上鹿し、製作の後帰島して実地に試み、漸く好結果を得たのである。彼はその成功を非常に喜んだというが、さもあることで、鉄輪車の発明は実にわが製糖業の発達にとって一新時期を画したものであった。而も有斗のこの挙たるや全く自費を投じて為したと言うことである。後公用を以って喜界島に渡り、鉄輪車の使用並びに製造法等を指南したが、この時も自費を投じたという。斯様に身を以って甘蔗圧搾機の改良に献げたる精神はその功績と共に敬仰すべきものがある。
 有斗の功績は圧搾機の発明のみに止まらず、他の産業にも心掛け深く、草木・薬草の類を広く島中に繁殖せしめんと努力した。唐竹も竹林を造成し広めた。
 文政の頃に台風に遭い漂流、中国で過ごした三年間にミカンの苗木を導入している。現在の「知名瀬ミカン」も其の一つではないかと言われている。
 有斗翁は進取の気風に富み各地から鉱石類を集めていたが、これは後に子孫による屋入銅山(竜郷町)の開発にもつながっていく。このように島の産業に多くの功績を残した人だが、最期は悲劇的であった。
 名瀬から一人、舟で知名瀬に向かう途中、大風を受けて行方不明となり、手ががりさえなかったと言う。
 彼の功績が漸く公に認められたのは藩による砂糖収奪が終わりを告げた明治21年である。この年3月、時の農商務大臣、黒田清隆は有斗の孫・有良に追賞証と金20円を授与した。
木と鉄で出来ているサタグルマ

柏 有斗の墓

鉄だけで出来たサタグルマ 昭和40年前後までの圧搾風景


喜界町中央公民館に展示されているサタグルマ(鉄輪車)

「黒糖」歴史散歩

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参考文献

「三和良の墓」について   弓削 政巳
大奄美史        昇 曙夢
碑のある風景     籾 芳晴
大和村の近現代    大和村誌編纂委員会
大和村の文化財をたずねて   大和村教育委員会
糖業史年表要約   南海日日新聞社
奄美の歴史さまざま  山下 文武
先人に学ぶ(上・下)  「郷土の先人に学ぶ」刊行委員会
喜界町誌   喜界町誌編纂委員会

協力関係機関・その他

大和村教育委員会・中央公民館
笠利町歴史民族資料館
名瀬市博物館
龍郷町中央公民館前公園
喜界町中央公民館・図書館
磯平パーク  大和村
柏 有斗の墓  名瀬市知名瀬
三和良の墓   大和村大和浜
開鐃神社    大和村思勝

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